あるとき、「止めるべきだ」と思いながら、その判断を引き受けなかった瞬間がありました。
相談を受けたのは、社会的には非常に正しく、強い理念を持った技術についてでした。
既存の製品に組み込むことで、安全性や安心感を高めることを目的としたもの。特許も取得されており、発明者にとっては人生の集大成とも言える内容でした。
技術としての完成度や、思想としての正しさに、疑いはありませんでした。
ただ、話を聞きながら、別のことも同時に感じていました。
「これは、採用されないかもしれない」
技術的な合理性は、確かにある。
社会的な意義も、明確にある。
しかし、意思決定する側が、それを選ぶ理由を持てるだろうか。
既存の価値観やブランドに、どのような影響を与えるのか。
採用した場合に、誰がどのような責任を背負うのか。
その問いに対する答えを、判断として引き受ける覚悟が持てませんでした。
止めるべきだったのは、そのときです。
制作に進む前に、こう言うべきでした。
「この技術は、誰のどんな判断によって採用されるのか。それを整理してから、進めましょう」
でも、私は言えませんでした。
人生をかけた取り組み。
特許という正当性。
社会的な意義。
それらを前にして、「うまくいかないと思う」と言う事は、相手の可能性を消す行為に思えたのです。
止めるという判断は、単に否定することではありません。
その人が信じてきた未来の一部を、こちらの手で閉じてしまう行為でもあります。
私は、その覚悟を持てませんでした。
違和感は、確かにありました。
しかし、それを判断として言語化し、相手に示すところまでは、踏み込みませんでした。
結果として、発信のためのWebページ、大手メーカー数社に向けた資料は完成し、内容については満足してもらえました。
実際に、2社から問い合わせがあり、プレゼンまでは進みました。
ただ、その先で求められたのは、技術や意義の説明ではなく、「この判断を、誰が引き受けるのか」という壁でした。
その壁を越える動きが、市場全体として起きたとは言えません。
後になって分かったことですが、あのとき私は、判断を急いだのではありません。
判断を、引き受けなかったのです。
振り返ると、あのときの判断は2Dでした。
技術として正しいか。
社会的に意味があるか。
伝える手段は用意できるか。
それらは見えていました。
しかし、隣で同時に起きることを、判断として引き受けてはいませんでした。
採用する側の視点。
意思決定者が負うリスク。
その選択が、既存の価値構造の中でどう見えるか。
それらはすべて、最初から同時に存在していました。
この経験から学んだのは、
「正しさ」と「採用されるか」は、別の次元にある
ということです。
判断を3Dで見るとは、技術や理屈だけでなく、意思決定者の恐れや責任、隣で同時に起きる現実まで含めて引き受けることだと思っています。
今、同じ条件の相談を受けたら、私はこう考えます。
この技術は正しい。
しかし、それを選ぶ人は誰か。
その人は、何を失う可能性があるか。
そこまで整理できない限り、制作には進みません。
この話は、失敗談ではありません。
誰かを批判する話でもありません。
判断の構造を残すための、記録です。